子どもは、みんな無邪気なのだと思っていた
- kumasannote

- 7月23日
- 読了時間: 3分

以前の私は、「無邪気」という言葉を、そのまま受け取っていました。
邪気が無いと書いて、無邪気。
子どもは純粋で、まだ何にも染まっていない。だから、子どもには邪気がないのだろうと思っていたのです。
その考えが変わったのは、自分の子どもが生まれてからでした。
子どもが生まれると、同じくらいの年齢の子どもたちが集まる場所へ行く機会が増えます。友人や知人にも赤ちゃんが生まれ、お祝いのために自宅へ伺うことも多くなりました。
それまでの私は、小さな子どもたちと長く接する機会がほとんどありませんでした。
けれど、いろいろな子どもと触れ合うようになってから、私はときどき、強い疲れや違和感を覚えるようになりました。
少し近くにいただけなのに、帰宅すると身体が重くなる。
触れたあとから、普段とは違う感覚が残る。
当時の私は、今のように自分で整える方法も、お祓いをする力もありませんでした。何かを感じ取ることはできても、それが何なのかを確かめたり、自分から切り離したりすることはできなかったのです。
ただ、目の前の子どもが悪いわけではないことだけは分かっていました。
子ども本人は、何も知らずに笑っています。
姿だけを見れば、天使のようにかわいらしい子どもです。
それでも、その子自身とは別のところにある何かに、私の身体が反応しているように感じることがありました。
家族の中で長く積み重なってきた感情や、さらに前の世代から受け継がれてきたもの。
そうしたものが、子どもの周囲に重なっているように見えることもありました。
もちろん、すべての子どもに同じような感覚を抱いたわけではありません。
けれど、この経験を重ねるうちに、私は「子どもだから何も持っていない」とは思わなくなりました。
子どもに悪意がないことと、何の影響も受けていないことは、同じではない。
今の私は、無邪気という言葉をそのように受け止めています。
妻は昔から子どもが大好きで、自分の子どもだけでなく、初めて会った子どもともすぐに仲良くなれる人です。
赤ちゃんを見れば自然に抱き上げ、私にも、
「パパも来て」
「抱っこしてみる?」
「触ってみたら?」
と声をかけることがありました。
妻には何の悪気もありません。
かわいい赤ちゃんを、私にも抱かせてあげたいと思っていただけです。
けれど私は、すぐに手を伸ばせないことがありました。
断れば冷たい人に見えるかもしれない。
相手を不快にさせるかもしれない。
そう思うと反応に困りましたが、無理に触れたあとで強く疲れる経験を重ねるうちに、自分の子ども以外には、簡単に触れないようになっていきました。
子どもが嫌いになったわけではありません。
怖い存在だと思っているわけでもありません。
ただ、自分が感じた違和感を、なかったことにはできなくなったのです。
そして今は、感じたことを理由に、その子や親を決めつけないことも大切だと思っています。
何かを感じたからといって、その子が悪いわけではありません。
親だけの責任とも限りません。
人には、それぞれ自分で選んだものと、自分では選べなかったものがあります。
その両方を抱えながら生きています。
だから私は、自分の感覚を守りながらも、相手を裁かないようにしています。
近づかないことが、拒絶になるとは限りません。
触れずに見守ることも、一つの関わり方です。
子どもは無邪気です。
ただし、それは何も背負っていないという意味ではなく、その子自身に悪意がないということなのかもしれません。
私は、自分の子どもが生まれ、さまざまな子どもたちと触れ合う中で、そう考えるようになりました。
もう少し、自分が感じていることを整理したい人へ。魂読では言葉にしにくい感覚も、話しながら深く一緒にほどいています。


